ゼイレク・モスクはイスタンブールにあり、2つのかつての東方正教会と1つのチャペルから成ります。コンスタンティノープルのビザンチン中期の建築の典型的な例で、アヤ・ソフィアに次いで、イスタンブールに残るビザンチンの2番目に大きな宗教的建造物です。

モスクの施設はファーティヒ地区のファズィレト通りに位置し、エスキ・イマレト・モスクから1km以内の南東の位置にあり、絵のように美しいものの、一度崩壊したことがあります。

1118-1124年にかけて、ビザンチン女帝のエイレネ・コムネナはこの地に修道院を建て、キリスト・パントクラターに捧げました。修道院は、これもキリスト・パントクラターに捧げられたメインの教会と図書館、病院からなっていました。

皇帝ヨハネス2世コムネノスは、彼の妻の死後の1124年の後、北側にもう1つの教会を建て、その教会はまずテオトコス・エレオウサに捧げられました。この教会は市民や一般の聖職者にも開かれました。そして南の中庭と外ナルテックスが施設に加えられ、2つの寺院がチャペルに併設され、寺院はコムネノス家とパレオロゴス家の墓となりました。多くのビザンチン高官に加えて、皇帝ヨハネス2世と彼の妻エイレネ、女帝ベルサと皇帝ヨハネス5世パレオロゴスもここに埋葬されました。

第4回十字軍後のラテン帝国支配下において、施設はヴェネツィアの聖職者の司教座でした。そしてテオトコス・ホデゲトゥリアのイコンがここに収容されました。修道院はまた、ラテン帝国最後の皇帝バルドヴィンによって皇帝の城としても使われました。その中で最も有名なのは、ゲンナディウス2世スコラティウスで、彼はイスラム勢力による町の占領後、キリストを最初のコンスタンティノープル総大司教に据えました。

コンスタンティノープル陥落後、教会の建物はモスクに改装され、修道院はしばらくの間メドレセ(イスラム神学校)に改装されました。オスマン人は教会を、そこで教鞭を取っていた人物の名前にちなんでモッラ・ゼイレクと名づけました。しかしながら、ビザンチンの歴史におけるその重要性のために、ゼイレクは、イスタンブールでも数少ない、古代の名が決して忘れられることのない建物となりました。キリストの教会は、ピエール・ギレスが16世紀に書いた古典作品により、記憶に残るものとなりました。1471年ファーティヒの施設におけるメドレセの完成後、学生達はゼイレクを捨て去り、メドレセに占められていた修道院の部屋は後に消え去りました。数年前までは、建物は荒廃した状態のままで、結果としてユネスコの危機的状態にあるモニュメントの監視リストに加えられました。ここ数年では大規模な修復作業が続いています。

今日ゼイレク・モスクは、アヤ・ソフィアに次いで、ビザンチン時代にイスタンブールに造られた2番目に大きな突出した宗教的建造物として残っています。