ネムルト・ダゥの陵墓には、コンマゲネ王国の文化のユニークな証がある。アンティオコス1世はこのモニュメントにおいて、父のミトリダテスによりダリウスの子孫、また母のラオディケによりアレクサンダー大王の子孫とされている。この半伝説的な血統は、血統主義時代において、東洋と西洋両方の力からの独立を模索する野心を解釈している。ネムルト・ダゥの自然を使った景観造りは、ヘレニズム時代の最もすばらしい事業である。

アレクサンダー大王の帝国が崩壊したころ、東方のヘレニズム化した地方にいくつもの王国が造られた。その一つがコンマゲネ王国で、紀元前62年~紀元後72年にかけて半独立国として存在し、その歴代君主は自治を守り、まずセレウコス朝、そして後にローマに対抗した。

王朝の君主たちはギリシア名であるアンティオコスまたはミトリダテスと名乗っていた。彼らは、ユーフラテス地方の高地の谷の北から伸びる山あいの地域に、息を呑むような美しい墓地の聖地を残した。その地には古代キャフタ、カラクシュ、そして特に、コンマゲネ王アンティオコス1世の印象的な陵墓全てがあるネムルト・ダゥが存在する。

1881年にチャールズ・セスターにより偶然発見されたが、1953年までその地の調査が行われることはなかった。ネムルト・ダゥの頂上には円錐形の、岩を切ってできた古墳がある。この古墳は、東、西そして北側が人工の丘に囲まれている。東の丘には岩の外を掘ってできた異なる2つの平原がある。高地には、神々を表す5つの巨大な座像が並んでいる。(アポロン神、ミスラ神、ヘリオス神、ヘルメス神、コンマゲネのテュケ女神、ゼウス神、オロマスデス神、アンティオコス本人、ヘラクレス神、アルタグネス神、アレス神)

これらの像の頭部は壊れ、低地に転がり落ちている。北の地では、こういった岩は、アンティオコスのペルシア側の先祖を表した彫刻で飾られている。南の地では、彼のマケドニア側の先祖が対照的に向き合っている。 西側の台地にも5つの同じ一続きをした似たような像がある。直立した岩は、アンティオコス1世の2つの系統を表しており、南側がペルシア系、西側がマケドニア系となっている。

3つのすばらしいレリーフは、アンティオコスが神々と握手を交わしている図を示している。それらは、左がアンティオコスとコンマゲネ王の寓意のグループ、右が「王のホロスコープ」と呼ばれる占星術的なレリーフによって形作られている。解読された碑文には、紀元前62-61年7月10日にアンティオコス1世がローマによって王の位を捧げられていることが示されている。

イェディヤマン

伝説によると、昔々この街に、偶像崇拝者の父親と7人の息子が住んでいました。この7人の兄弟は、偶像を崇拝する信仰を持っていなかったため、父親達が狩りに出かけたある日、偶像を破壊してしまいます。父親は狩りから戻ったときに、偶像が息子達によって破壊されているのを見て、彼らを一人ひとり殺してしまいます。民衆は、勇敢で頼もしい、英雄のようなこの兄弟に、「イェディヤマン(7人の勇者の意)」という名を送りました。

その後この地全体に広まった「イェディヤマン」の名は、時とともに「アドゥヤマン」となりました。今日街の南に「イェディカルデシ(7人の兄弟)」として知られる7つの墓のある場所は、民衆の間で今もなお聖なる場とみなされ、添え物が添えられ、ロウソクに火が灯されています。